ビジネスマンライフストーリー

『伝えたい道がある』

〜困難や恐れに襲われた時に 私を支える聖書(神)のみことば〜

井端秀明

 Tokyo Marunouchi Partnership 理事会  議長

人はリーダーであろうとなかろうと、毎日が判断の連続です。何が正しいのか?マニュアル通りの判断(白黒)では、決して道は決められない。自身の経験や他人の助言、誰かの教えを取り入れた判断によって正しい方向へ進めるのか? 
何をもって、どんな結果をもって、正しいとされるのだろうか?その行きつく先は?平安の地か?それとも不安と恐れの暗闇か?
私にとっては、聖書のみことばこそが「道であり、真理であり、いのちです」。聖書にはっきりと記されている神の教えを離れた時、私は何時も傲慢になり、自己中心で保身的な自己主張の罠にかかってしまいます。そこには平安がなく、恐れと不安、怒りと裁き、不確かな疑いが残っています。聖書のみことばは、いつもそんな私の拘り(プライド)を砕き、しっかりと立たせてくれる、まさに『いのちのみことば』です。これまでの歩みの中で、色々な責任(役割)が与えられ、さらにその責任が重くなればなるほどに、確信として照らされた聖書のみことばがあります。
マタイの福音書20:25~27
「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。『あなたがたも知っている通り、異邦人の支配者たちは、彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間でえらくなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい・・・」  
マタイの福音書16:24~26
わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか 
1993年、30歳の時、みずほ銀行本社の業務統括部に勤務していた私は、激務で倒れ、延べ2年に渡る闘病生活を送りました。その間に、兄からイエス様のことを教えられ、聖書から恵みを受け、主イエス・キリストに導かれました。
私の人生は30歳を境に大きく変わりました。人生の価値観、指針、歩み方が完全に変わりました。それは、『自分の存在意義』を明確に知り、それを自分の中に受け容れて日々を歩む人生に変わったということです。銀行の支店長という立場にも置かれましたが、その社会的責任、職責は大きく、深く、その荷はとても重いものでした。(これは銀行に限らないと思いますが)日々、新しい困難、経験したことのない様な事案や事件、複雑に絡み合った問題が現れます。
それらは全て人に関わる問題です。人が起こし、人が要求し、人が訴える問題です。 私は困難に直面したとき、「どのように乗り越えるのか?」という方法論を探す前に、「どこに 立つのか(どこに立っているのか)」という存在論、その立ち位置の確かな土台(礎)が何なの かがとても重要であると思っています。
新約聖書の中に神様の存在を知った僕(パウロ)が語ったことばがあります。「・・・艱難さえも喜んでいます。それは艱難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。」 これは、神の存在を知り、神を認め、神を信頼して歩む(生きる)者の姿です。艱難に直面した時に人間は、変わることのない、揺るがない、正しい真理の上にあれば(立てば)、忍耐する力が与えられ、局面を脱することができるのです。「品性」や「希望」は、良い土地、揺るがない土台(礎)によって、その上に成るものです。
私の人生の歩みが確かに変わったのは、この聖書によって神様の存在を知り、その神様が真実であることを実際に体験し、聖書の神様の存在をはっきりと認め(心に受け容れ)てからです。艱難の中にあっても喜び、忍耐が与えられ、希望が与えられる聖書の真理が私の土台となり、 私のスタンスをはっきりとさせたのです。